ポピュリズムという語義の変遷とその狙い

はじめに

恣意的に既成権力やエリート側がポピュリズムという語義を設定し、「偽のポピュリズム」と「真のポピュリズム」いう領域を作っていった。

 

一部のポピュリズムが逆に真の理想的な民主主義であり、その性質が既成の権力構造から嫌がられて、その動きの中で「偽のポピュリズム」とでも言うべきものが生まれていった。

 

今回は、ポピュリズムという語の一部の意味にこめられた策略と悪意、そしてその狙いを記す。

 

そして、どうすればそういった既成権力から真の民主主義と僕たち民衆のリーダーを守れるかということを記すこととする。

 

 

既成権力による「ポピュリズム」の恣意的定義

ポピュリズムという語は、エリート層が嫌がる人、つまりエリート層の気に食わない人たちをポピュリストとして呼んでレッテル付けするために用いられる傾向がある。

 

つまり、既成権力が権力の座に居続けることを意識して、人民に真に根ざした新興勢力に対してポピュリズムと指摘している節があると言うことができる。

 

そして、既成権力がそういった新興勢力を排除しようとして社会において行っている策の一環として、ポピュリズムという語を使用している節がある。

 

要するに、ポピュリズムという語は、既成権力やエリート側が従来的な権力の立場から恣意的に用いられる偏った狙いのある語であると言うことができるだろう。

 

だから、ポピュリズムという語が用いられる場合に、さまざまな思惑が存在していると言うことができる。

 

だから、僕たち国民は、本当の意味で一体誰が誰のことをポピュリズムやポピュリストと指摘しているかという構図を、よく見て見抜いていくということを行うべきである。

 

そしてその構図の理解を十分に行った上で、それを十分に踏まえて日本という国の真の民主主義のリーダーを見出し支援していくべきであると考える。

 

 

守旧派勢力の陰謀とマネーゲーム

ストレートに述べると、ブッシュ当時のアメリカやユダヤの権力者たちが、イラク戦争やアフガニスタンのテロのようなことからもたらされたマネーを得ていた。

 

そして、その人たちがオイルマネーをテロ絡みのマネーを、日本のアベノミクスのマネーにつなげるようなマネーゲームをしていた。

 

そういった悪い既成権力やエリートが、僕が今述べているポピュリズムという語を用いて真の民主主義のリーダーを排除しようとする人たちである、そういった既成権力者たちは、戦争やテロ周辺の出来事からくる間違ったマネーを手に入れるという禁じ手を行い、次に日本という国の破綻しかかるような広義の震災ビジネスにも乗って大枚を手に入れた。

 

だから、そういった守旧派勢力は、トランプ政権になって、日本もその後にアベノミクスが終焉したことで大きな危機を感じ、トランプ政権の改革に対抗してブッシュ以来の流れを復活させようと画策している。

 

ところで、そもそもここで述べていることは、偽造されねつ造された「偽のポピュリズム」の例であるが、以前から僕が批判してきたアベノミクスは、「真のポピュリズム」の典型例であることは脳裡に留めておくべきである。

 

この二つのポピュリズムの類型である、真のポピュリズムと偽のポピュリズムのそれぞれのイメージを混ぜることによって、既成権力は新興勢力の民主主義の新しいリーダーを追い払う目的の装置として、ポピュリズムという概念の語義とそのイメージを位置づけたと言うことができるのではないだろうか。

 

ちなみに、偽のポピュリズムの例は、アメリカのトランプや日本の橋下徹等である。

 

この二つの例は、ポピュリズムという民主主義の特殊な例というよりも、民衆に根ざした民衆の声を代弁し既成権力と闘う真の民主政治の例であると述べることができるのではないだろうか。

 

そして、それゆえに既成権力やかつてのエリート側のような守旧派勢力から悪く取り扱われて、ポピュリズムとして排斥しようとする動きがあると言うことができるのではないだろうか。

 

 

トランプの勝利と世界の民主主義

トランプが闘争に勝利し大統領に返り咲いたことにより、アメリカの民主主義は健全なままで継続できることになった。

 

もし、トランプが再選されなければ世界の民主主義にとってとても危険な流れが生まれていく可能性もあったのではないかと思っている。

 

山積したスキャンダルを乗り越えトランプが再び大統領の座に返り咲いたことにより、世界の民主主義政治はその窮地から逃れることができたのだと考える。

 

トランプでなければ、スキャンダルや陰謀や、その他守旧派からのさまざまな追及をかわすことはとても難しかっただろう。

 

トランプだから可能であったと言うことができるだろう。

 

軌跡の復活劇であったと言っても過言でないのかもしれない程である。

 

バイデン前大統領とトランプ大統領の関係は、民主党のバイデンが共和党的で、共和党のトランプが民主党的な振る舞いを見せるという、いわゆる「ねじれ」の関係と構図が存在したと言うことがアメリカ政治の当時の状況について出来ると思う。

 

トランプの電撃的な復活劇により、数々の陰謀とスキャンダルをはねのけ、再選出されたことが世界にとって本当に幸いだった、軌跡のような見事な勝利であった。

 

大統領で民主党に強いポイントとなる点がなく、「やはりトランプがやらなければ」と有権者であるアメリカ国民が考えたのだろう。

 

そういったアメリカ国民が考えたのだろう。

 

そういったアメリカ国民の総意がトランプの復活を可能としたことをアメリカ国民は忘れずにいるべきであろう。

 

トランプだから可能であったのだ。

 

だから、その民主主義の行方をアメリカ国民のみならず、世界は注視すべきであろう。

 

民主主義にただ乗りすることは禁物であるからである。

 

絶望的に思われた中からの、まさに軌跡であったと言うことができるのではないだろうか。

 

守旧派からの追求は、今後も続くと思われるが、世界とアメリカ国民はトランプ支持の態度を明確に打ち出し、そういった動きに粘り強く対していくべきであると考える。

 

民主主義を守る闘いは今後も続くことになるだろう。

 

しかし、その勝利を常に諦めてはならない。

 

それほどまでにも、イラクやアフガニスタン、中東のオイルマネーや日本のアベノミクスマネーの旨みは、守旧派勢力にとって大きなものであり、そういった人たちを肥え太らせる結果となってしまっていた。

 

その歴史的矛盾のツケが、今世界に苦難を招く結果となってしまっているのだ。

 

決して、トランプはポピュリズムでない、真の民主的リーダーなのである。

 

僕たちはその点を決して見誤るべきではないだろう。

 

世界の危機は今もなお存在していると、僕は考えている。

 

根気強く、粘り強い闘いが、今の時代を生きる世界の人たちに求められていると言うことができるだろう。

 

民主主義の成立の歴史的過程が闘いで生まれていったことがその性質をよく表していると言うことができるだろう。

 

決して、民主主義の成立過程もそれほど生半可なものであったわけではなかったことは周知の通りである。

 

自由と平等、平和と共に民主主義が現在の世界の基本として定着するために、それゆえに多くの闘いと長い年月が必要であった。

 

先の大戦でも多くの命が全体主義の脅威により失われ、それへの深い反省から、東西冷戦を経て今日の自由、平等、平和と民主主義が基調となる今日の世界の姿へとつながっていった。

 

トランプの行っている民主主義が、今、光となって世界に良い影響を与えていることを、僕たちはだから単に傍観しているだけでいるべきではない。

 

もっと丁寧に、現在の社会や世界のありのままの状況を見つめ、もっと議論すべきである。

 

そして、現状の社会や国の姿が、もっと多くの人々の賛同を得られるようになっていくことが好ましいと考える。

 

 

 アメリカ政治のねじれと対話の必要性

先ほどの話に戻るとしよう。今、アメリカの共和党と民主党の関係にはねじれが存在するように見える。

 

特に、先のアメリカ合衆国大統領であったバイデンの強権的な色合いが、民主党というより共和党のそれであったと言うことができるのではないか。

 

そして、共和党の中で異色の存在のトランプが、民主党的であったと言うことができるのではないだろうか。

 

とりわけ、そういった構図の表れが、先のアメリカ大統領選で顕著に傾向として存在していたということができると思う。

 

それほどまでにねじれの傾向が強かったと考える。

 

そして、そのねじれの構図は、共和党と民主党それぞれの改革が行われることにより解消されるべきであると考える。

 

党派対立がある場合も、それを具体的に話し合う必要がある場合も存在するだろう。

 

日本的には、対案を出し合って討議することが通常であるが、アメリカ政治においては大統領が決定権限を強く所持しており、対案を出し合って討議して野党案の一部を盛り込むという議会手法が、どこまでアメリカにおいて通用するかは分からない。

 

しかし、「一つのアメリカ」に今現在のアメリカがなることが出来ていないことがアメリカの現状であるとするならば、対話を民主党に呼びかけて野党案を一部盛り込むという議会の手法が、重要であるかもしれない。

 

議会の状況がどうなっているかというより、社会や国の状況が分断されていて一体的になれていないことが現在のアメリカであるとするならば、という社会や国の状況の問題である。

 

そして社会や国の現状を解決し、分断の状況にどう取り組むかという時に、対話を求める大統領の姿勢が必要かもしれないという意味である。

 

社会の分断の早急な解決が望まれ、そしてそれに適した議会と国のまとめ方が大切であると考える。

 

ねじれの状況は、トランプの共和党の改革と、民主党の正常化の二つの方向からの改革を必要としているように見える。

 

しかし、僕は共和党が単純に昔のブッシュの頃の路線に回帰すればいいと述べているのでは決してない。

 

むしろそれとは逆に、ブッシュ路線とのはっきりとした決別を踏まえた上での、トランプによる共和党の改革が必要とされていると考える。

 

そしてそのためにも、当面の問題の具体的な取り組みと解決のために、民主党と共和党の間の党派対立を超えた対話が必須条件であると考える。

 

一つのアメリカへと再び回帰するためにも、民主党と共和党の間の対話が強く求められている。

 

この、対話の十分な実行を基調とした緊密な協力関係こそが、アメリカと世界の民主主義にとって必要不可欠であると言うことができるのであろう。

 

 

橋下徹のバトル政治と真の民主主義

日本の場合、橋下徹は大阪府知事や大阪市長の時代において、闘争の構図を敷いて、その中で共産党や大阪市役所の当時の役人などに対抗して争いに打ち勝つという、いわゆる「バトル政治」を行った。

 

それは、橋下徹自身の弁護士であったという肩書きや経歴に基づいた、法律の内容の号砲、違法のどちらかへということを勧善懲悪の構図に持ち込んで闘争を重ねていくという政治手法であった。

 

このバトル政治は、公開された万人に見守られる中での闘いであり、だからそのために熾烈な争いであり、その半ば明確な勧善懲悪的な構図はギリギリであることを表していた。

 

違法な、橋下徹と敵対してる側の悪と、橋下徹の善の、二極対立の勧善懲悪の構図が半ば歴然としていて、万人にとっても理解されやすい橋下徹による政治が行われていた。

 

いわゆる既成権力に対して、法律の論理を鮮明に打ち出してバトルに持ち込んで相手を倒していくという、橋下徹が大阪で行ったバトル政治における正義は、一種痛烈であり痛快であったことは、いまだに僕たちの記憶に新しい。

 

 

ポピュリズム語義の変遷とその悪意

さて、ポピュリズムという語義について先ほどその原義について若干述べた。

 

しかし、最近になって、ポピュリズムという語は以前ほど使いにくい語義でなくなってきている印象がある。

果たして、その理由は何であるのだろうか。

 

最近になってからの語義は、ウィキペディアによると、「政治変革を目指す勢力が、既成の権力構造やエリート層を批判し、人民に訴えかけてその主張の実現を目指す運動」であるとしている。

 

そして日本では、「固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴える政治スタイル」という意味で使用されることが多いとしている。

 

初期の頃のポピュリズムという言葉の意味は、先ほど述べたように、エリートや既成権力と対抗する真の民主主義政治のリーダーを、嫌がり、そして貶めるために、そして権力構造から排除するために用いられる傾向があった。

 

しかし、最近のポピュリズムの語の意味は、それと比較して単なる「政治スタイルや政治運動の一形態」へと変わってきていることが見て取れる。

 

しかし、元々の語義があまり良い意味で用いられなかったから、元々の悪いイメージと現在の語義が受けているように認識できるように見える。

 

要するに、元々の悪いイメージを残したままで、ポピュリズムという文字を使いやすくあえてすることで、元々の悪い意味を広めることが目的であるように見受けられる。

 

少なくとも、昔からの語義が現在の語義にそういった形で作用を及ぼしていると言うことができるだろう。

 

特に、使いやすく、ポピュリズムの言葉としての領域を広げていくことで、逆にイメージを悪いものに見せる動きがあるように見受けられる。

 

つまり、橋下徹やアメリカのトランプをポピュリズムやポピュリストと呼ぶために、あえてポピュリズムという語の領域を用いやすいものに拡張させた可能性を否定出来ないと言うことが出来るのではないだろうか。

 

特に、国民一般が持つポピュリズムという語のイメージが、大衆迎合主義という訳語が示す、大衆を煽っていくという悪い原義が、強く現在のイメージに影響を及ぼしているように見える。

 

つまり、まとめて述べると、現在のポピュリズムという言葉の意味は以前より幅広く、かつよりライトに使用できるものに変化してきている印象がある。

 

しかし、国民一般はそういった正確な語義の変遷を把握して用いるのでなく印象で捉えるから、学者によるような学問的研究の場合と異なると言うことができる。

 

そして、その国民一般の理解の仕方が社会全体の大勢となっていくから、実際にはポピュリズムの語義についてもそれと同様なのではないだろうか。

 

つまり、先程述べたように、前からあった悪いイメージから現在のイメージも強く影響を受けたものとなると言うことが可能なのではないだろうか。

 

要するに、昔のイメージで現在の語義を見る面があるのではないだろうか。

 

要するに、元々のポピュリズムという言葉の意味を変化させることで、偽のポピュリズムの事例である、トランプと日本の橋下徹をよりポピュリズムと指摘する傾向が強まり、よりポピュリズムと呼称しやすくなったのではないかという意味である。

 

トランプと橋下徹の名誉や存在性のようなものを貶めるために、意図的に語義をライトに変化させることで、悪いイメージで軽く使用するように仕向けた印象が強い。

 

これらの語義の変遷の理由が、そもそものポピュリズムという語を、大衆を扇動していくという意味で用いた初期の頃と同様に、既成権力や既成のエリート側からの悪意からであるという可能性が高いと推察される。

 

つまり、ブッシュ政治以来の悪いマネーを悪いやり方で転がしてきた一部のアメリカ人やユダヤ人の既得権益側が、新しく政治に参入しようとした勢力であった、アメリカのトランプや日本の橋下徹、橋下徹の場合は主に対立を直接したのが日本の共産党や大阪市役所の役人であったというまた多少異なった背景を持つが、その基本的構図はアメリカのトランプと同様であると言うことができるだろう。

 

そして、トランプや日本の橋下徹が参入して新しい権力となることを、敬遠して設定された動きの既得権益側の当時のものが、ポピュリズムの語の意味の恣意的な設定やその変遷であったと思われる。

 

そして、端的に見ても、ポピュリズムという語の原義の「エリートと人民の二項対立すること」を否定することで、既成権力であった当時の既得権益やエリート側と対立する者全てを否定する狙いがあったことは、ほぼ確実な事実であったとすることが可能であるのではないだろうか。

 

つまり、まとめて述べると、既成権力であり、当時の既得権益側であったイラク戦争以来の守旧派勢力が、みずからの権力の保持を目的として、ポピュリズムという言葉を用いて、新興勢力の追い落としを図ったということが、当時の社会や世界の動きの真相であったのではないかという意味である。

 

そして、その際に標的になったのが、繰り返しになるが、いわゆるポピュリストの偽のものであったアメリカのトランプと日本の橋下徹であった。

 

橋下徹の場合は、日本国内の環境とアメリカの違いがあり、事情も若干異なる点が存在するが、その基本構図はだいたい同様で共通することは先ほど述べたとおりである。

 

ポピュリズムやポピュリストという語やその語義は、そういった既成権力やエリート側の既得権益の悪意ある狙いから生まれたものなのである。

 

そういった人たちが、ポピュリズムやポピュリストという語義を恣意的に設定したり、後の変更を加えることによって、アメリカのトランプや日本の橋下徹のような新興勢力や新参者の排斥を行おうとしたことが、いわゆるポピュリズム論の偽のものの悪意なのである。

 

しかし、僕たちはそういったポピュリズムの偽のものがある一方で、真のポピュリズムである安倍政権が存在したことを決して忘れてはならない。

 

偽のポピュリズム同様に、真のポピュリズムというものも歴然として存在することが事実である。

 

既得権益の当時からのものは、その両者のイメージを意図的に混ぜて区別できないようにしようとしたのである。

 

イラク戦争やアフガニスタン、そして日本のアベノミクス等、さまざまな悪い機会、悪い手段で得た悪いお金により成り立っていた人たちが、逆にポピュリズムやポピュリストだとアメリカのトランプや日本の橋下徹を名指ししてきたような既得権益者たちなのである。

 

繰り返し述べてきたように、もちろん橋下徹はイラク戦争やアフガニスタンにおける事態と直接関係ないと思われるが、既得権益との対決等の基本構図がトランプと似通っている共通点があるので併記した。

 

そういった人たちにとって、アメリカのトランプが、特に目障りな存在であったのである。橋下徹の場合は、共産党や大阪市の役人やそのほかさまざまな既得権益と、当時の大阪で大々的に「バトル」を展開していたことは周知の事実である。

 

大阪市長に初当選した直後の公衆の面前の挨拶の際に、大阪市長となった橋下徹に詰め寄るように質問で挑戦した女性職員の存在は、大阪での橋下徹のバトル政治のまさに象徴であったと言う事ができるだろう。

 

橋下徹は、そういったさまざまな既成権力と正面から闘った。

 

その激しい闘争の雰囲気や気配は、国民や市民がマスコミ報道から見ても窺い知ることができるほどであった。

 

そして、橋下徹はそういった既成権力からの罠と策略をさまざまなバトルを通じて切り抜けていった。

 

それはまさに痛快そのものであった。

 

だから、大阪府民や市民のみならず多数の日本国民にとっても分かりやすく、多数の支持を得る形で大きな政治力を生み出していったのである。

 

事態、つまり橋下政治のバトル政治というものの本質が、分かりやすく、多数の民衆の支持を得る理想的な民主政治のリーダーとしての姿であったことは明らかであるだろう。

 

そして、それは断じてポピュリズムではなかったと言うことができると考える。

 

このように、トランプ政治とともに橋下徹の大阪での政治もポピュリズムではない、本質の核心が正真正銘の民主主義であったと言うことができるのである。

 

守旧派の巻き返しと民主主義の闘い

今日の世界や日本も、いまだに不健全な守旧派勢力が巻き返しを図って、いつ何をしてくるか分からない局面が今後も続くと考える。

 

それほどまでに過去の悪いお金に旨みを覚えていると考える。

 

そして、それをまた再び得たいという欲望を持った守旧派が、いまだに機会を虎視眈々と狙っているように見える。

 

そういったエリートや既得権益側との争いが出現してくる場面が、表面上、あるいは水面下であることは十分あり得ると考える。

 

そして、そういった事態が顕在化した際に、僕たち国民や世界の人たちが、民主主義に単にただ乗りするだけでなく、何らかの形で声を上げる必要があると言うことができるだろう。

 

民主主義は平和の中で生まれたのでは決してなく、むしろ多数の闘いの中から生まれたことは歴史的事実であるからである。

 

この事実を世界や日本の人々は、決して忘れるべきではないだろう。

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