日本型ポピュリズムと時流という名の誤謬ー増補版ー

今回は、以前このブログに記した「日本型ポピュリズムと時流という名の誤謬」の加筆修正を加えた増補版を、ここに記そうと思う。

 

最近の日本のポピュリズム度合いは、あまりにも強すぎる。安倍政権以降、日本は急速にポピュリズムが進行した。

 

現在は、もってのほかの諸費税廃止等の極論がまかり通っている。

 

そういった事態は防がないと国家財政が破綻してしまう。

 

でも、大半の政治家は何らかの意味でポピュリズムを主導している。

 

容易に国に借金をさせ、押しつけ、国民の銀行口座に「現金」を振込み、「還元」させてきた。

 

そういう浅はかなポピュリズムを多用してきた。

 

国の借財、アベノミクスマネーという名のマイナスマネーは、借金だから最終的には国民にそのつけが回るのは明らかであるのに、国民も、そういった政治家たちの甘言や、安易なポピュリズムに乗るという形で理性や良心が矮小化して、或は欠如してしまっていて、そういう愚かな政治家たちの度合いを許容していたり、或は一緒になって同類のようにそのお囃子に踊らさせられてしまっていた。

 

アベノミクスというまるでお囃子という名のものと組み合わさり、日本という国を幻の熱狂で包み込んでいた。

 

借金マネーを国民同士が奪い合って、借財が膨れ上がっていって、国内で洗脳し合うという醜い行動に走っていた。

 

そして日本の破綻度合いは、アベノミクス以前から深刻なものがあったが、アベノミクスというお囃子のリズムに乗って、さらにその度合いは跳ね上がっていった。

 

そのことについて、全くと言っていいほど自覚がなかった。

 

破綻を日本がするというリスクを完全に思考として考慮できていなかった。

 

或は見たくないとして、無視していたというのが当時の日本人の精神状況の実情だったのだろう。

 

安倍晋三元首相のアベノミクスに洗脳されて、国全体がまるで集団催眠にかかっているかのように見えていた。

 

国に借金させることをやめていかないと、日本という国が借金返済することを海外から言われて、タイのバーツの下落に端を発して起こった「アジア通貨危機」の時のように、世界銀行から現地に駐留されて監督されるようなある種主権の侵害に近いことを受けることにもなりかねない。

 

十分そう言った事態もあり得る範囲内にあると言える気がする。

 

だから、借金を返さないことは、必ず国に居住する私たち国民にも影響してくる。

 

そのことを決して忘れてはならない。

 

国民一人当たり1000万円の借金のある国は、父母一人ずつ、子供一人の家庭で3000万円の借金があるということだから、もう既に破綻寸前まで来ていると言うこともできるかもしれない。

 

当然、国家の破綻はイコール、そこに暮らす国民一人一人の破綻と同意であることは言うまでもない。

 

それを、自分の利益のために国民に借金のことを隠してきちんと説明しようとしない政治家と、何も解ろうとしない国民という、全く愚かすぎるくらいに愚かだった。

 

だから、今こそ財政規律の意識を高め、借金で溢れ返った財政の立て直しに真剣に取り組み、是正し、現状の打開策を形だけでなく探るべきであると考える。

 

岸田政権の大抵の政策は優れた性質を示していたが、防衛費増額だけが愚策だった。

 

防衛費が5年で43兆円もの多額に及び設定された背景に、時流に沿った政策は進められるべきだという、一種の社会的になされた刷り込みによる影響が存在しているだろうということは否定できない事実だろう。

 

時流とは、「その時代の社会一般の風潮や、思想の傾向」(goo辞書)という意味で、社会のトレンドになている物事の傾向性のようなものを指す言葉である。

 

だから軽々しく時流に乗ることは、往々にしてファッション主義のようなものに走る傾向を生む。

 

だから、時流であるというだけでは、よく見ていると時流というもの自体にはっきりとした根拠が実際には存在しないことに気づく。

 

つまり、政治の場面の話としては、時流であるというだけでは政策として、方針として、行うべき根拠が必ずしもある訳ではない。

 

それなのに、憲法改正を行うことも、時流という根拠のない価値観やドグマ的思考によって行われようとしている。

 

根拠のない時流による、そういった政策やそれを行う政策決定には、私たちは断固とした姿勢を貫くべきである。

 

その具体例の代表的なものとしては、憲法の改正については単に時流による政策決定であるだけでしかないから、行われるべきでないと考える。

 

日本人は憲法改正に反対の姿勢を持つべきである。

 

維新の大抵の政策はいいが、時流やトレンドに乗りすぎた政策を唱えている印象があり、政策によっては多少慎重な取り扱いが必要なものも存在するように思える。

 

具体的には、憲法9条やそれに関連した防衛論議のテーマについては、維新の言説に疑問を覚える面もある。

 

米国に乗っかって、安保条約を強化して、思いやり予算を出して防衛してもらい、米国の作った憲法9条に基づき、平和を貫いて、PKOのみの国際貢献に留めて過去の段階に戻るべきだと考える。

 

そうすることで、海外派兵をまた控えていき、そういった意味での現在の軌道の再修正が必要なのではないか。

 

米国が作った憲法なのだから、それに基づいた日本の軍事についての路線をあまり否定しないはずである。

 

いたずらに日本人が、他国と「揃え」て、他国と同じようなことを言い出して、先進国並みのGDP2%だとかいうような中身の空洞な愚論を言い出すのは、あまりにも戦争の危険を知らないからに見えるし、米国に守ってもらえるのに、守ってもらわないことをしていくことを愚かだと思う。

 

戦争は人が死ぬという圧倒的事実を、今きちんと冷静に日本人は知るべきである。

 

日本は幸いにも、今現在まで海外派兵での自衛隊員の犠牲者はゼロである。

 

しかし、これから先も犠牲者が全く出ないことは考えにくい。

 

犠牲者が出てから、或は将来に徴兵制ができてしまってから、戦争の危うさについて知り、戦争に反対しだしても遅い。

 

今の段階で、明確に事実を捉え、自国の防衛費の公共事業化を防ぎ、日本のこれ以上の武装化をやめることを考慮すべきである。

 

思いやり予算は年間2000億円程度あるから、防衛費増額の規模が5年で43兆円だから、倍の4000億円出してもそれほどの規模ではない、防衛費で十分に賄える範囲である。

 

だから日本は、京大教授で国際政治学者であり思想家でもあった高坂正堯の述べた、経済の国という形の「片務体制」の国に回帰し、原点に回帰すべきであると考える。

 

それは単なる米国への「依存」ではなく、新たな戦略としての方向性をよく鑑みた結果として、必然的に決定することが妥当であり、戦略として片務体制を選択する方が正しいだろうと考える。

 

今、日本で主流になっている、或はなってきている、日本の防衛についての独自力を高める方向性は、日本にとって必要のない戦争を自ら選択させていくという愚かな選択になっていることに、私たち日本国民はいまいち気づけていないのではないだろうか。

 

戦争しないでいい憲法をもらっているのに、そしてその憲法に基づいて平和国家としての道を歩んで経済の繁栄を高らかに謳ってきたのに、それをあえて捨ててまで巨額の軍事費を費やして軍事国家化する道を歩む必要はないというのが、冷静に客観的に日本の現状を見た時の結論として適切であることを見失っているのではないだろうか。

 

43兆円積み上げていくより、米国への思いやり予算を倍以上の高水準積み上げる方が圧倒的に低コストであるはずだし、かつ何より私たちは、自分たちで自分たちの国を防衛することのできる自衛隊を今でも所持しているのである。

 

これ以上一体何を必要とするのか甚だ疑問である。

 

だから、私は、日本で独自防衛論を唱える政治家や評論家のうちの何割かは、新手の利権主義者ではないかと見ている。

 

今見てきたように、現在行われている防衛論議の中枢は、単なる時流であるというだけでその本質は空洞なことは明らかである。

 

今、日本にとって必要なのは、経済を立て直すことであって、巨額の軍事費を積み上げて、赤字体質の軍需産業を作り、軍隊を持って、戦争する国になることでは断じてないのである。

 

防衛費の公共事業化は絶対に防ぐべき事態である。

 

軍需産業は赤字体質だと決まっているというのは、どこの国の場合においても定説である。

 

日本の財政は、国と地方合わせて1200兆円であり、国民一人当たりで言うと1000万円の借財である。

 

このことは、とても深刻な圧倒的事実である。

 

だから、赤字体質の防衛分野の軍需産業は、断じて公共事業化されて予算の中で固定費的になるべきではない。

 

今から時代をPKOの国際貢献の昔に戻し、「平和国家ニッポン」へと再び歩む道を見つけることが、国家としての日本にとって最善の道であると、私たちは気づくべきであると思う。

 

参考文献

日本国際政治学会 制度整備・自己点検タスクフォース企画「日本の国際関係論の再検討ーー『外圧反応型国家』としての日本外交をめぐる研究の位相」日本外交分析の回顧と展望ー安全保障政策を中心にー慶應義塾大学添谷芳秀

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