社会や国のこと全体のことを考える思考の重要性

アベノミクス下で日本人は、単なる羊のように飼い慣らされて、結局自分の国にその借金を押しつけて、いじめる結果となり、「借金大国ニッポン」へと日本は成り果てていったのである。

全体主義は民主主義に反したもので本来ないのではないだろうか。

全体のために個人が滅私奉公したり、働くことは必要なのではないか。

民主主義は多数決の論理で、つまり個人や個人主義に基づくように見える。

問題は全体のことを個人が考えることにあるのではない。

個人がたとえ全体の中に埋没しても、個人が組織や国等の全体を考えることが必要な場合が存在するのではないだろうか。

つまり、個人が全体のことを思考するという意味での全体主義はごく当たり前に重要なものなのではないだろうか。

或いは、全体主義とともに、国家主義もそれと共通なものであるのではないだろうか。

だから、本質国家主義や全体主義も、民主主義に反したものではおそらくないのだろう。

多数決や一票の投票行動に基づく個人主義や民主主義はそれゆえ、全体主義や国家主義とそれほど矛盾しないと言える、或いは「同居」できると言えるのではないだろうか。

つまり、全体主義や国家主義も、個人主義とそれに基づく民主主義と共有できる領域がある、或いは互いにとって両輪の関係であると言えるのではないか。

むしろ、全体主義や国家主義は、全体という思考が個人の集合体としての社会や国家にとって不可欠と言うことができると考える。

社会や国家という個人の集合体にとって、全体への奉仕を行うことは或る程度以上に重要であると言えるだろう。

或る程度とその及ぶ範囲を限定したのは、個人の自由意志に基づく面が大切であることを忘れてはならないからである。

自由な意思に基づく面がなければ、全体への奉仕が強制となり、個人の埋没する程度が限界領域、超えてはならない一線を越えて逸脱してしまう可能性が生まれるからである。

当たり前であるが、自由意志も或る程度重要であることは、明らかな事実であるからである。

国や社会のことを考えることも大切であるが、自由という権利に基づく姿勢をその際に忘れてはならないことも明らかな事実である。

個人の自由が尊重されることは或る程度重要である。

まとめると、個人の自由が確保される土台が整った上で、全体の社会や国への思考が行われるのであれば全体主義や国家主義の問題性は薄く、逆に必要性があると言うことができるだろう。

全体主義のヒトラーの失敗は、道徳を全く無視して個人を支配する形で助言等をほとんど受け付けずに政治を行ったことによって生まれたと言うことができる。

個人に強制する形で政治を独裁的に行ったことが、当時の世界にとって非常に許されない結果を招いたと言えるだろう。

個人への圧政がファシズム、全体主義の非常に悪い点となりそれが形となって表れていたと言うことができる。

しかし繰り返しになるが、その全体主義の良い点も、全体主義の悪い点を考慮することと同時に決して忘れてはならないと考える。

個人がその全体の姿のあるべきものについて考える方向性もないと、国家や社会も滅亡してしまうことを、決して僕たちも忘れてはならないと考える。

悪い点や陥りやすい弱点を十分にわきまえつつ、その良い点を生かす工夫が大切である。

社会や国へ、全体を思いやる気持ちを忘れずに、しかし自由を過度に侵害しない態度や姿勢が十分に図られば、社会や国もその中に存在する個人も、双方が幸せに共生、共存できる領域が生まれてくるのではないだろうか。

民主主義が個人主義や自由という理念によるという点を十分に考慮しつつ、国や社会のことの全体も十分に考えるというバランスのとれた「思考」を、僕たちは身につける必要性があるのではないだろうか。

単純に全体主義や国家主義の悪い点を取り上げて簡略的に扱うことが、その大事な点を生かすことのできないような態度になっている場合があると考える。

国家や社会のことをよく考えて思いやる人材を育てていくことに、特に重点を入れて取り組むことが必要である。

そういった人材教育に重点を置くことがとても大切であり、日本にとって急務である借金問題のような課題に取り組む際にも、そういった思考は非常に大切なものであることは明らかである。

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