橋下徹の維新政治は、バトル政治とマスコミ等から揶揄されたが、真の民主主義に近い形とトランプ政治と同様に方向性として共通点があった。
大阪の地方政治において、「教育の無償化」などや財政の縮減を行って行政・財政の改革を進めていった。
その手法が弁護士出身の橋下の勧善懲悪の簡潔なものだったため、そのわかりやすさを逆にポピュリズムの「ハシズム」と共産党や共産主義者や、大阪市役所等の役人たちから批判されることがあった。
よくよく見てみると、真に民衆の声に寄り添った理想的な民主主義であったことが理解できる。
アベノミクスの時期に日本の国家主義が唱えられたこと、確立されていった向きがあることは一種の皮肉であるが、つまりその理由は日本の構造潰しが行われていたのが自民・公明両政府与党の行っていたアベノミクスの時期であったという意味である。
その皮肉とは、アベノミクスにより構造潰しを日本の国家主義政党であった自民党が行っていた時期に、逆に国家主義という国の根本姿勢を形づくる方針が策定される動きがあったという意味である。
その皮肉な形で作られようとしていた日本の国家主義耶蘇の法的な動きの面でもある「憲法改正」等を橋下徹がよく唱えていた面は「時流」という名で語られる、僕の批判理論が表している。
少しそういった流行りを言い過ぎる面が負の面であると言えるが、それについては以前僕が述べていたことがあるので、ここでは割愛しておくことにする。
とにかく、以降述べるが、国家主義づくりや憲法改正について、従来の自民党が行ってきた、多少国粋主義じみた政治家たちの述べていることと性質がまた異なることは特記しておくべきであると考える。
しかし、基本的には威信という政策や理念には感銘している点が多いことはここにきちんと明記しておきたい。
ただ、先ほど述べた憲法改正とその周辺の政策や方針に、賛同しかねない面が多少あるだけである。
たまに大政翼賛的に見える動きの、日本の政治的な動向と、いしんのそれはまた一線を画したものであることもここに明記しておきたい。
そういった動きは自民党の中の靖国神社に参拝する人々の一部に傾向として見られるが、威信や新しい動きの国家主義を図る動きと決して混同してはならないものである。
それは、いわゆる国粋主義的な右、と普通の国家と新しい勢力が言う意味の右との違いのことである。
普通の国というのは、昔、小沢一郎氏が述べた右のことであり、戦後行われていた共産主義的な教育で言われてきた「戦後史観」と呼ばれることとの決別の意味で唱えられた右のことである。
安保、日米安保に基づいた戦後行われてきた日米関係という二国間関係から生まれていた体制のことが、戦後永らく行われていた。
それが日本独自のシステムが日本を自立させていくために必要ではないかという文脈で、独自憲法だとか独自の防衛力という名の軍事力を所持することが要るのではないかと言われる流れにつながっていった。
しかし、しかしである。
本当に独自の憲法や独自の軍事力が必要か疑問だと思うのが僕の考えである。
それは単に流行りの今の時代にある「時流」ということに過ぎず、真の日本の現状や、真に日本の求めているものとは異なるものでないかということである。
日本にとっては、「平和主義国家」として歩み続けてきた歴史があり、その時代の基づいてきたシステムである、日本国憲法と日米安保こそが、今、再考し、その原点に立ち返ることが必要であるのではないかと僕は考える。
時流に乗るだけで、本質がない日本的な悪しき思考である。
いわゆる「揃える」的な思考はやめておく方がいいのだと思う。
単に流行に合わせて、揃えるというファッションやワンタッチの思考方法やそれに基づいて形づくられた手法は執り行われるべきでない。
真に、日本にとって必要なことは何かということを発見できる目線が要るのである。
それは、米国に守ってもらって、日本の防衛を独自にせずに、「思いやり予算」をアメリカの要求する程度に増やしていくという方向性である。
そして、その根本精神の憲法9条を堅持してゆく方向性のことである。
思いやり予算は現行で2000億円と言われているが、防衛費増額で言われた岸田政権で決定された額が5年で43兆円という規模であるから、倍の4000億円を思いやり予算に回すことも十分可能なはずである。
日本は、社会の「同質性」を好む、社会の見せる性質としてその同質性の問題があるが、その点について十分に留意する必要があると考える。
同質性とは、何か社会で、全体が、批判する人を欠いたままに一様に同方向に進んでいき、批判する人がいても、そういう人たちを日本社会が同一の性質を好むので排除していくという、日本社会特有の性質のことである。
その性質が、社会がファシズムのような危険な動きを見せる時に、誰も日本社会のそういった動きを止める人がないと、太平洋戦争の失敗の繰り返しになる。
だから、日本は独自に軍隊を持たずにいる方が、そして米国に守ってもらう方が、民族的性質としても向いていると考える。
独自防衛というと、しかも日本はばら撒き体質があるから、「防衛費のアベノミクス化」、「防衛費の公共事業化」を生み出しかねない。
両者とも、日本の財政赤字をさらに巨額化させ、日本の国家が、経済や財政が破綻することにつながっていく。
単に利権政治家や、既得権益者が満足するだけで、国やそこに居住する国民にとって不幸な結果となってしまうことは明らかである。
日本はかつて太平洋戦争につながっていく時に、国家が暴走してしまっていた。
独自防衛力やそのために憲法改正を行うということは、その過去の過ちを繰り返すことになるので行うべきでないという戦後教育の原点に、日本人は今こそ立ち返るべきなのではないだろうか。
京大教授であり、国際政治家でもあり、同時に思想家でもあった、高坂正堯の示した理論に、そういったことを考える際に非常に有意義であるものがある。
いわゆる「片務体制」という理論である。
片務体制とは、米国に軍事を持ってもらって、日本は経済に専念するという理論である。
つまり、日米安保に基づいての日本の戦後を支えた理論や理念的な枠組みだ。
今、日本は米国の作ってくれた日本国憲法に基づいて国を守ってもらい、片務体制で経済に専念することが大切ではないかと思うのだ。
日本は、非常に深刻な財政難だからもある。
戦後の体制が古いのではなく、時流ということを考える人たちが、その新しさの中で戦争の惨禍と失敗を単に忘却してしまっているだけではないだろうか。
或は、時代の動きの中で、いろいろ気づいていないのと、気づこうという気持ちがなかったりで、本質が見えなくなっているのではないだろうか。
大切なことは、借金が多い日本の現状をきちんと認識することを忘れてはならないということである。
新たな借金での利権を公共事業的なことでつくるのではなく、マイナス成長やゼロ成長もきちんと直視して現状に向かっていくという態度を僕たちは取り戻す必要があるのではないだろうか。
日本の現実は、財政不安が深刻であるという事実である。
借金がこれ以上増えることを防がなければならないということは第一に考えるべきである。
それなくしては日本に明るい未来はやってこないのだ、という真実を僕たちは知るべきである。
そういった現状認識の上に、それ以外のことに始めて執り行うことが可能となるはずである。
思いやり予算を倍にして日本は、米国に守ってもらうと、経済的に負担が大幅に独自防衛力を整えるより削減できることははっきりしている。
つまり、日米安保体制の米国との協力体制を続けると、その分予算の将来的負担を独自防衛する場合と比較して大幅に削減できる。
まず日本の財政不安を直視し、それに取り組むことが要るのであるから、独自防衛やそのための独自憲法の策定や、日本国憲法の改正はやめておく方が好ましいことは明らかである。
日米安保の米国との協力体制から、日本は離れるべきでないと考える。