時流という名で語られる事柄の真相について

前回のブログで「時流」という言葉で憲法改正を読み解いたが、その「時流」というのは、時代の流れに沿って考えているだけで、ある意味流行を追っているだけで、その政策的根拠が存在しないものが「時流」という名前で語られるものに多いのではないかという意味である。

 

憲法改正や独自防衛する仕組みを作ることが、先進国としての日本の形として当然のことだとする流れがある。

 

しかしそれは、日本の歴史と環境を踏まえた論理でない。

 

物事の本質は「流行」を単に追うことの中からは決して生まれるものでない。

 

他人の言説を流行として追って、単にコピーすることからは何も成果あるものは生まれない。

 

コピーしてそれに表面上だけのパッケージをつけてカッコよくしているだけの言説が多い。

 

それが時流という言葉や、或いは時流的な事柄の真相であると私は思っている。

 

かっこいいだけの言葉は当たり障りのない言葉を連ねるだけのものは、単にファッションであるだけである。

 

それは不毛なだけの何も中身のないものである。

 

それは単に時代的な刷り込みと洗脳によって生み出された、はっきり言うと偽物である。

 

安易に結論を出そうとするあまり、そういった偽物にハマってしまって、時代の中で刷り込まれた内容をコピーしているだけのファッション化された言説に飛びついてコピーしまうのだ。

 

いわゆるヒューリスティックな判断という意味だ。

 

ヒューリスティックとは、「経験則、試行錯誤的なかたという意味の言葉」で、「常に正しいとは限らないものの、経験的にある程度正解に近い解を得られる手法のこと」(「NTT西日本ICT用語集」より一部改変)という意味である。また、社会心理学的意味でのヒューリスティックとは、「判断に楽をして簡便的な手法を用いる際の思考法」といった意味だった。(僕の大学時代の専攻が、社会心理学だった。)

 

そうならないためには、自分で情報に対しての軸をきちんと打ち立てる必要がある。

 

自分の「軸」をハッキリとした根拠として持てるようになることが必要になる。

 

要するに、状況や常識に流されすぎずに、判断をしっかりとできるように確立するという意味である。

 

 

 

 

 

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