時流という名の誤謬について前回ブログに書いたが、今回はその具体的なダメな理由について書き記そうと思う。
まず第一に、時流とは時代的な刷り込みや洗脳によってもたらされる。
だから大抵他人の言説のコピーである。
あとそれ以外は、時代によって刷り込みや洗脳を受けた内容から来る単なるコピーである。
コピーしている本人は、大概の場合そのことに気付けてない。
或は、少なくとも意識ができていない。
意識しない間に、他人が言ったことをただ繰り返すだけのコピーと、その結果による増殖を繰り返す結果になってしまっている。
それは知らない間に、社会等から日頃刷り込みを受けていて、そしてそれで無意識に刷り込みがインプットされていって、その内容がリピートするように繰り返される形でアウトプットとして表出される。
意識がきちんとしていなかったり、社会の中で意見や政治的な国民としての言論が、イメージに流されている結果引き起こされることだ。
それは、今の日本社会が人を標準化してゆく動きを持っているからかもしれない。
そして、同じような人を再生産することを繰り返しているように見える。
はっきりした根拠はなく、そういった感覚を覚えるということでしかないが…。
他人の言説を刷り込みや洗脳によって刷り込まれていることは、明らかに単なるそれはコピーである。
生産性にも独創性にも欠ける。
本質がない空洞な言論が、拡大再生産することを繰り返されすぎると、日本の民主主義は破壊されてしまうだろう。
社会を変革する力がなく、本質、本来的に社会に広まるべきものでもない。
でも、「時流」という名前から分かるように社会の中で幅をきかせている。
では、社会を変革する力に欠けているのに、社会の中で前面に立っているように見えるのはなぜだろうか。
それは、時流という言葉で分類される事柄についてのファッション性がある。
小綺麗で体裁のいいパッケージが付けられていて、とにかくファッショナブルでスマートでかっこよく映る。
つまり、そのファッション性という性質が、単なるイメージになりかかっても、時流が時流であり続けられる理由だ。
でも、ファッションやイメージ、そしてそれが時代的な洗脳や刷り込みから来る、時流は極力排除するか、少なくとも時代の前面にあるべきものでない。
このブログや、僕のXのポストを読んで、時流の本質をよく見ていると分かるはずだ。
日本社会に流行っている、憲法改正や独自防衛を謳う防衛論議等の、時流が時代に不適だという逆説だ。
他の先進国と同水準に軍事費を揃えるべきだ、というような言説や、憲法を改正して自前で防衛して普通の国に揃えるべきだという、時代の中で流行している代表的言説の本質が空虚である。
よく考えると、みんなが同じ表現を連呼していることに気付く。
それは、時流という言葉の表すことに本質がないからなのだ。
だから、本質のない言論のコピーがさらにコピーを生むようにしだいに時流が増殖していって、空洞な感じが社会に広まってゆく。
その本質的に意味のない言論のコピーが広まりすぎることが、大きな弊害を日本の中にもたらしている。
そのこと自体が一つのポピュリズムとも言えるのであろう。
われわれは気づくべきなのだ。
そうでないと、私たち自身が「誰からか分からない洗脳や刷り込み」に負けてしまうからだ。
私たちは自覚すべきである。
私たちにとって必要なことは、安易なポピュリズムに流れされず、思考や意見に個人としてきちんとした軸を持ち、確実に自らの判断を適切に行なってゆくことである。
今まで見てきたように、日本の中で「時流という空洞」が将来的に民主主義に与える影響は深刻であると言えるであろう。
社会が、目に見えない何か、或いは誰かによって破壊されないように、私たち一人ひとりが、常に自分の目線で社会を適正化できるように努めるべきなのである。