今回は、日本人が海外から飼いならされて「ポピュリズム的保守」という羊にされて、その動きの中で国家主義が作られていている現実について記したいと思う。
自民党の裏金疑惑の際に、自民党についての偏った公平性の欠けた放送が多くおこなわれていたことについても、僕から見ると鮮明に見え気づいていたが、当時誰もそれを指摘する人が存在しなかった。
批判を社会に対して問題設定しておこなう層が日本にあまり現在いなく、多くが国家や社会の動きに同調して無批判に受け入れていることは、僕から見ると先ほどの内容と同様に鮮明に見えていた。
公共事業や各種、民間のものも含め開発についても、最近までのアベノミクス以降、日本人全員近くがただ礼賛してしまっている。
かうての左翼的な層がそれと逆にポピュリズム的右翼という保守層へと変化してしまっている。このことを僕は非常に危惧している。
この日本の批判層であった革新的左翼の層がアベノミクス的国家主義の動きの中で、ポピュリズム的保守的右翼へと一部が変化しているかのように見えることがある。
そして飼いならされてしまっているように変化してしまっているように見える流れが、日本にとっては社会の同質性を更に深めるといった危険につながっている。
この飼いならされて、国家主義者や国家から現金給付という名で直接現金を銀口座に振り込まれたりする有権者は、堕落して単なる保守に変貌してしまっている面があるのではないだろうか。
単なる飼いならされた羊へと変貌してしまっているように見える時がある。
かつての左翼の全部が飼いならされたという表現には誇張があるとしても、左翼や革新的左翼の一部がポピュリズムや「ポピュリズム的保守」に変貌してしまって、ある意味飼いならされているということは一方で事実だろう。
アベノミクス以降の特に現金給付等の動きの中で、左翼や革新的左翼の一部がポピュリズム的保守へと飼いならされて取り込まれてしまっているのは、おそらく事実だろう。
保守層が社会の中で増えた感があるのは、そういった左翼の一部がポピュリズム的保守に取り込まれて、アベノミクスかで偽の国家主義化、海外の悪意で始まった国家主義化していったからだと感じる。
この一種悲劇は、おおっぴらに公然と安倍政権等の最近の保守政権においておこなわれている。
現金給付に代表されるポピュリズムはその好例である。
批判せずに同調しないと、非国民と言われた太平洋戦争当時の日本のように、移民排斥を言う一部のインターネット上の言論は似通っているように見受けられる。
こういった最近の危険な現状は、批判層としてかつて存在した層というものが、ポピュリズム的保守に堕落してしまっていることを表していると言えるだろう。
要するに、批判してきた部分の右翼も左翼も、結構多くの人々が、僕が言っている意味でのポピュリズム的保守というものへとなってしまっていることが、現在の日本の抱えている「病」のあらわれの根本であると言える。
この日本という国は、現在非常な財政難である。
この悲劇をおこなってしまっていた、旧民主党政権やアベノミクスの動きの中で、破壊されてきた。
この旧民主党政権とアベノミクスはポピュリズムと国家主義をワンセットで進めていった。つまり、この国にポピュリズム国家という位置づけをおこなっていった。
このポピュリズム国家として日本を定義づけるために、国家主義を多用してゆく必要があったというのが、海外的政党であった旧民主党政権と海外に洗脳を受けてしまっていた安倍政権の過ちからの行動の真意であったと言うことができるだろう。
要するに、日本をポピュリズムにするために、これらの政権は国家主義をその手法として用いたのである。
こうして海外勢力により日本はポピュリズム化していったのである。
だから、現在日本は少なくとも現行の国家主義をおこなったり、現行の国家主義を定義づけるための憲法改正をおこなうべきではない。
海外から影響を受けて保守のポピュリズムが入った形での国家主義の議論になってしまっているから、日本において現行の国家主義の論議がおこなわれるべきではない。
逆に、社会や国の動きに対して批判をおこない得る層が徹底的に欠如している現実があるから、そういった層を養う必要があると言えるだろう。
そうしないと、再び全体主義やファシズムの世の中の、新たな悲劇を生み出しかねない。
社会や国の動向に異論を唱える人材こそが今必要なのである。
現行の国家主義、旧民主党政権や安倍政権下でおこなわれてきたものを、一旦白紙に戻して、現行の政権下での国家主義作りや憲法改正論議は凍結させるべきあと考える。