今回は、日本のバブル経済の崩壊以降のことと、災害ジャーナリズム等による洗脳のアベノミクス、そして日本の言論復活の必要性について記したい。
日本社会は、失われた10年を、20年、30年と、「失われた」と伸ばしていき、一向にバブル崩壊以降の実体経済を受け入れずに、予算投入の枠を広げ続け、バブル期の経済水準の「妄想」に浸っているように見える。
日本政府や企業は、表面上だけの企業の存続や維持をすることに汲々として、本質的な構造についての改革をせずに、短絡的に金融緩和や短絡的なコストカットをおこなっていた。
そして、社会が機能不全に陥っていた。
或は、現在もその環境に大差がないかもしれない。
具体的には、政府や金融機関が不良債権処理を十分におこなわずに、逆にマスコミも、一強の時代だとか極端なことを述べ、短絡的に人員削減をおこなっていた。
一方で、企業そのものの体質改善を怠り、非正規雇用が拡大し、その結果、日本において格差が拡大していった。
いわゆる、就職超氷河期とフリーター200万人時代における日本のことである。
その環境下で、人材の需要と供給のミスマッチという、採用側の企業にも、採用される側の労働者にとっても不幸な環境が続いていた。
そして、その結果、人材教育を企業自身がおこなわずに、即戦力採用に走り過ぎたり、派遣会社を偏重することにより、日本企業の中に外国の「血」が入るように企業体質が変化していった。
外国の血ということを述べたのは、派遣会社には外国系企業が多かったから、そのことがらみでの何らかの思惑があった可能性を危惧してのことである。
要するに、その意味というのは、日本企業の外国化を図るという目的で、まずその労働環境を変化させようという海外的思惑があったのかもしれないということだ。
日本型労働環境とは、いわゆる終身雇用制度と年功序列賃金等の日本型企業のシステムのことである。
つまり、派遣会社の問題とは、日本型企業の仕組みの外国化のために、日本の労働環境に派遣会社の血を入れることで、欧米型のシステムへとつなげる海外的思惑が存在したのではないかという疑惑である。
とにかくそれはさておき、不良債権処理を怠ったまま、十分に体質改善をしないままに、日本はアベノミクスという大型の金融緩和の道に走り、政府は借金で作った予算からマネーをファンドという形で企業に巨額注いでいった。
だから、いまだに多数のゾンビ企業が体質改善されないままに存続してしまっていると思われる。
つまり、多額の不良債権の企業が、そのゾンビ体質そのままに温存されてしまっているという火種を、日本がいまだに抱えているかもしれないということだ。
つまり、その意味とは、ゾンビ企業、不良債権企業に、その体質改善がおこなわれないままに、安易に税金が金融緩和により注入されていき、正常再建化しているに過ぎないかもしれないという事実だ。
このぬるま湯のような経済、財政運営は、岸田政権による量的質的金融緩和政策の終了により、改革路線へと流れていったが、現上川政権においても現金を有権者に振り込むという保守的なポピュリズムと言えるような状況が存続してしまっている。
一万人に、一万円ずつ振り込むと一億円の計算になるから、十万円を一万人に配ると十億円ということになる。
つまり、一億二千万人の国民に一万円ずつ振り込むと、一兆二千億円の財政の新たな負担が生じることになる。
一人十万円ずつ現金を振り込んでいることがあったから、その無謀な、政治が有権者の口座に直接振り込むという「政策」とアベノミクスは、日本の財政難に入っている局面にとって、さらなる致命傷となった。
そして、今でもしばしば、繰り返し、振り込みの手法は政治的、行政的手法としておこなわれてしまっている。
あと、各種風水害等の災害の際に、被害の額を見ずに、その後の復興的な公共事業の予算の経済効果だけを見て、景気対策は災害で生まれると災害ジャーナリズムによる「錯覚」によって思わされていた。
そして、それを見抜けない国民でもあった。
こういったばら撒きの手法を改め、適切な財政の縮減と改革により、日本社会の機能不全を改革することこそが必要とされていると言えるだろう。
だから、アベノミクスの災厄という責任は、単純に政府の責任なだけでなく、マスコミと国民を含めての全員の責任だ。
特に、東日本大震災という最大の災厄は、復興予算に群がってきた海外に洗脳もされていた結果だった。
どう控えめに観ても、それは禁じ手であることに間違いはないと言えると思うけれども、当時の日本においてはあまり否定されることがなかった。
政府とマスコミの災害ジャーナリズムによる、国民への、災害は復興という刷り込みと洗脳の結果でもあった。
そういったことからの反省により、アベノミクスは、岸田政権時に量的質的緩和政策の終了という形でその終わりを迎えた。
そして、更に上川政権になった今、既得権益の構造を改革し、広く国民全体、国家全体の利益を考慮して取り組んでいくことが、日本社会の未来にとって有益なものとなるだろう。
だから、そういった視点を忘れることなく、構造改革に適切に取り組んでいくことが日本にとって急務であると考える。
あと、こういった日本における改革の際に、今まで繰り返し海外の不味い点を述べてきた。
しかし、その海外と戦略的に、いわゆる腹を探り合って向き合って上手くやっていくことが、日本の対外的行為として必要であるという事実はここに補足しておく。
対外的な行動なしに、日本が世界において単独でやっていくことは、事実上不可能であることは明らかだからである。
だから、日本人の苦手と言われる分野だがその戦略性を持った外交の必要性をここに説いておくことにする。
僕はこれからも、政府や国家に批判的な国家主義者である、自称「批判的な右」という位置でいようと考えている。
つまり、日本の構造に適切に参画して、具体的にはこの言論をいつか著書にしてそれに加わり、批判的な右であり続けたい。
そして、旧民主党政権からアベノミクスへの流れとつながる中で「ポピュリズム的保守」に堕落してしまった、日本のかつての批判層の復活を呼びかけることにより、適切な言論を復活させ、日本の再生に貢献したいと考えている。
旧民主党政権、アベノミクス下の日本で、国家に飼いならされて偽りの国家主義者に近くなってしまった、かつての日本の批判層の復活を願い、日本の言論の復活とその適切な批評により、日本の再生をここに提起する。