今回は、僕が作成した「保守の洗脳についての覚え書き」の中から、「保守の洗脳」をテーマにした部分に幾つかの全体の内容から分割したものの補稿を記そうと思う。

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アベノミクス的な思考形式と手法による洗脳に基づいて、つまり、復興と災害ジャーナリズムによる洗脳や国家主義による洗脳に基づいて、アベノミクス的な視点である過剰なマイナスマネーでの予算規模の政策を主張する「保守の洗脳」と、二大政党制の「保守化の影響」があった。
そしてそれらが、いかに現在の主に野党のアベノミクスの余波や残影として残されているかを解明する。
日本のアベノミクスの残影が、逆に消費税の廃止などを言う野党の一部に残っているように見受けられる。
でもよくよく考えてみると、昔から社会党などが消費税の廃止などを主張していたので、今に始まったことではない。
だから、僕の思考回路も結構変化していて、以前も述べたことのある「保守の洗脳」のようなことを時代の中で受けていたように感じる。
そして、そういった保守の洗脳を受けた影響によって、共産党や社民党やれいわ新選組や国民民主党などが求めている消費税の廃止や消費税の減税の現在のものの形が分からなくなっている可能性がある。
その洗脳は、アベノミクス下の日本に存在した、被災からの「復興」を名目とした、いわゆる保守であるべきだと強いる「圧力」による保守化の強制と保守化をめぐる洗脳であったと言うことが出来るのではないだろうか。
「政府と国民が一丸となって『被災からの復興』に取り組むべきだ」とする、刷り込みや洗脳によるものがその内容であったと思われる。
そして一方で、共産党や社民党などの伝統的野党も、復興に向けて一丸となって取り組むべきであるという洗脳によって、政府の当時の方針に半ば洗脳されていて、財政のばら撒きについて盲従してしまっているという現実があった。
では、伝統的野党が受けた洗脳と僕自身が受けたものがどう関係や影響しているか、或はあるとすればその違いは一体何であるのだろうか。
一言で言うと、僕は消費税の廃止などが分からない洗脳というより、保守化の時代的な「波や影響」を受けている。
他方で、共産党や社民党などの伝統的野党は、アベノミクスの無駄遣い、「借金はいいことだ」とする洗脳と、「勢いの経済政策をいいのだ」と思わせる洗脳と、金融緩和をよしとするなどの洗脳を海外や国内から受けている。
果たして、伝統的野党側が洗脳を受けたのか、僕が洗脳を受けたか、或は両方がか。
野党は同じ消費税の廃止などを主張していても、その質や内容が変化したのか。
或は、時代の変化と絡み合っての影響をアベノミクスにより受けて、政策や意見の質が変化していったのであろうか。
そして一方で、復興は国家主義とも絡んでいる面も存在する。
東日本大震災という「敗戦後の焦土」からの復興は、被災からの復興をいう際に、「私たち日本人は」と言わせたり、聞いている人たちに洗脳や刷り込みを行う国家主義化がその水面下で進行していった。
そのため、アベノミクスによる洗脳は、国家主義による洗脳の面も存在した。
共産党や社民党も、アベノミクスの時代に、復興ということを名目上の理由として、「一丸となって政府と国民が取り組むべきだ」とする、半ば国家主義による洗脳の影響を受けて、政府や国の当時のもののやり方に無批判でいる時期が存在した。
そういった時期が長く続いた。
当時のマスコミも、安倍政権などアベノミクス下の政権に加担して、災害ジャーナリズムによる報道を続けることでその洗脳をばら撒いていた。
日本中がごく一部を除いて洗脳を受けたような、まるで「集団催眠のような状況」であった。
或は、そう言われても仕方のないような特殊な時代であった。
安倍政権、菅政権、そして岸田政権の途中まで続いた異次元金融緩和は、非常に深刻な影響を、日本の財政面のみならず社会の面にも、そういったモラルハザードの後遺症として残す結果となったのである。
そのために、今日の日本という国にとって、アベノミクスによる財政面や社会に及ぼした影響や結果についての「総括と検証」という作業が必要とされていると言うことが出来るのだろう。
先ほど述べたように、僕が「時代的な保守化の波と影響」を受けていて、共産党や社民党やれいわ新選組や国民民主党などが「アベノミクスの洗脳」を受けていたということかもしれない。
共産党や社民党などの伝統的野党や、れいわ新選組や国民民主党や参政党などが、アベノミクスの余波や流れを受け継いだばら撒きを言っている。
与党の自民党などの行なっている「現金給付」のような一部の似通った政策も、例外的なものとして存在する。
国民民主党もトリガー条項の撤廃や消費税の減税などを主張することで、他の先に挙げた野党と同様にアベノミクス的である。
生活や暮らしを言い過ぎる言説や政策の打ち出す政策の中に、アベノミクスの残影がいまだに存在するのではないだろうか。
日本においては、二大政党制の思考の、或はその思考についての主張の流布によって、与党志向が、「本格的」という語のイメージで広まり、より「政権奪取」を明確な目的に求める傾向が野党の間にも広まっていった。
そういった時代の流れの中で、政策の具体的内容についても以前より保守化の影響が広まっていった。
しかし、アベノミクス下の日本において、財政規律を軽視するマイナスマネーを大量出動させるモラルハザードと洗脳により、再び野党の志向や傾向は政権志向から、「暮らしや生活を言い過ぎるポピュリズム」へと路線転向が行われた。
そして、この暮らしや生活を言い過ぎるポピュリズムの傾向が、アベノミクスの余波や流れを言い過ぎる動きとして今日の日本にも残されている。
そして一方で、東日本大震災やその他アベノミクス下で起こった各種災害の際に行われた、災害ジャーナリズムなどによる洗脳によって、保守の洗脳、つまり保守化させる洗脳により野党の政権への無批判、政権のアベノミクス下のものへの傍観の姿勢が生まれたのである。
つまり、より丁寧に述べると政策やそれらの政党の志向が保守化したというより、無批判と傍観の姿勢が野党の中にアベノミクス下で生まれ、「政権を許容する思考」が生まれていったように見える。
そして、政権志向も一旦、野党の間でアベノミクス下において低下したように見えた。
そして、このことにより政策もアベノミクスの影響を受け、大量のマイナスマネーの出動と財政規律の無視という意味でアベノミクス的な、「生活や暮らしを言い過ぎるポピュリズム」へと転向していったのである。
つまり、保守の洗脳により政権を許容する動きが強まり、かつ元の野党の体質に似通った点もあるような暮らしや生活をより述べるポピュリズムへと、再び質が変化した形の「野党の再野党化」が進んだという意味である。
つまり、アベノミクス下の政権のポピュリズムをコピーする形で、野党のポピュリズム化も進んでいったと言うことが出来るだろう。
そして、現在はまた野党の間に政権奪取への望みは復活しているように見えるが、アベノミクス下においては一旦「リセット」されている印象が強かったということが出来るのではないだろうか。
僕の場合について述べた、時代による波や影響による保守化とは、先に述べた「二大政党制による保守化」を意味していると、他方で考えることが出来るだろう。
「野党も政権を獲得するために責任を持つべきである」という論理で、野党や左翼的な僕のような人間も含めての間にも、保守志向の強まりが見られたということが出来ると思う。
つまり、これが僕の受けた、保守化の時代の波や影響、言い換えると二大政党制による影響の意味であると思われる。
話を元に戻すと、伝統的野党、ならびに現在の野党の一部は、復興を名目とした保守化の洗脳を、アベノミクス下の国家主義の影響とともに受けて政権を許容する動きと政権擁護的体質となり、無批判な傍観者へと変化していった。
そして、自民党の一強の下、与党であろうとするよりアベノミクス下で政権に従順な野党であろうとして、ポピュリズム政権の下でポピュリズム政策である、生活や暮らしを言い過ぎるポピュリズムを展開していった。
そして今日にも、その残影として「生活者重視」の路線で与党志向は一方で元に戻った感はあるが、野党としての運営を行っていると言うことが出来るのではないだろうか。
当然、自民党自身にも、現金給付などの政策にアベノミクスの残影が存在していると言うことが出来る。
以上をまとめると、アベノミクス的な視点、つまり過剰な予算規模での政策を主張する野党も、生活や暮らしを過剰に重視すべきだとするポピュリズムである。
そしてそれは、アベノミクスによる保守の洗脳により無批判な傍観者へと変質していくことと同時に進行していった。
そしてそれは、アベノミクス的な思考形式や手法による洗脳に基づいている。
つまり、具体的には、思考形式とは、「経済は勢いだ」という形式と、「借金は借金でなく返さなくていい」という二つの洗脳の形式を意味する。
そして、その手法とは、東日本大震災などアベノミクス下の各種災害からの復興の際の災害ジャーナリズムによる手法や、被災からの復興の際に述べられた福島県の住民などからの「私たち日本人は」という言葉を連呼することによって生まれる、国家主義の手法の二つの洗脳の手法を意味する。
これらの四つの思考形式や手法による洗脳に基づいて、アベノミクスという時代は執り行われていた。
こういったアベノミクス的な思考形式や手法による洗脳によって、アベノミクス下の保守の洗脳は形作られていた。
そしてそれらによって、国家に多大な借財を背負わせて、その借財によるマイナスマネーで潤っていると錯覚させるポピュリズムが執り行われていた。
そして、私見ではあるが、今日の野党の主な政策である物価高対策のような生活や暮らしを言い過ぎる極致が消費税の廃止や消費税の減税などの主張によく表されているということが出来るだろう。
いわゆる、先ほど述べたような錯覚や洗脳による思考形式や手法による洗脳に基づいた政策や主張が、野党の主義主張を席巻しているという事実が、アベノミクスの残影として野党の中で逆に存在しているという問題がある。
第一、生活や暮らしは大切でも、それを言い過ぎると民衆は「庶民化」してしまう。
民衆に媚びて生活や暮らしの生活によるアメを与えても、そしてそのことにより実際的に生活や暮らしがたとえ安定しても、権力というものは民衆や庶民化した人民が生活に安住している間に腐敗していってしまうだろう。
民衆による政治への目線の監視が権力に対して存在しなくなったり機能しなくなると、権力は腐敗していくということは定説である。
そして、その権力の腐敗の防止のために、民主主義の存在が求められていることが必定である。
だから、民衆が生活や暮らしだけを政治に求め、民主主義の理念や意義を忘れていくと、次第に民衆は庶民化していき、必然的に路線が出現する傾向が生まれ、格差が拡大していくことなるだろう。
その後に気付いても、時期を失して事態はすでに遅く、たとえば権力者が作り出した戦争に僕たち国民が出兵させられるかもしれない危険性も存在するだろう。
或は、収容所に送られるような恐怖政治が行われる危険性も、さらに極端な場合にはあり得るかもしれない。
だから、現在の民主主義国家としての日本のカタチをいかに保っていくかということを考えていくことが求められていると言うことができる。
だから、そのためにも、生活や暮らしを言い過ぎるポピュリズムというものは、全くもって禁じ手なのであると言うことができる。
まとめると、「被災からの復興に、政府と国民が一丸となって取り組むべきだ」とすることによる国家主義の洗脳と、それと結びついたアベノミクス的な思考形式や手法による洗脳に基づいた「復興にまつわる洗脳」、つまり「経済は勢いでいいのだ」という形式と「借金は借金でないので返さなくていいのだ」という形式、それに加えて災害ジャーナリズムによる手法の洗脳と、国家主義による手法の洗脳であった。
そして、それらの思考形式や手法による洗脳を基にしたアベノミクス的な視点である、過剰な予算規模での政策を主張して大量のマイナスマネーを出動させる一連のアベノミクス的な動向が、アベノミクス下の日本に存在していた。
あと、一方でそういった形でのものに対して、僕の場合、二大政党制による時代の流れや影響により保守化していった面が存在する。
共産党や社民党などの伝統的野党や、安倍政権下で生まれた国民民主党やれいわ新選組などの比較的新しい野党も、この場合は二大政党制により保守志向が高まっていたが、一方でそれに加えて先ほど述べた、アベノミクス的な思考形式や手法の洗脳と、マイナスマネーにまつわる一連の極度のポピュリズムであるアベノミクス的な視点である過剰な予算規模を是認する無批判な傍観者となる洗脳を受けていた。
そして、その結果として、傍観する無批判な羊的野党として飼い慣らされていた。
そしてかつ、与党によるアベノミクスという極度のポピュリズムに染められてしまっていた。
そして、生活や暮らしを過度に言い過ぎるポピュリズム野党と化してしまっていた。
そして、現在にもその余波が日本政治の中に残されている。
マイナスマネーによる経済政策に依存している度合いの強さが、そしてその傾向が、アベノミクスの流れを受け継いでしまっていると言うことが出来ると思う。
そして、そのマイナスマネーを用いて生活や暮らしの充実を目指そうとし過ぎる点があると言うことが出来るだろう。
そして、その具体的で核心の政策や主張である、消費税の減税や消費税の廃止は、昔から存在していたが、アベノミクスの影響を受けることによって、ポピュリズムの体裁を強く帯びたものへと質的に変化してしまっているのではないだろうか。
つまり、政策や意見としての質が、内実変化してしまっているのではないだろうか。
つまり、過剰な予算規模を唱う財政規律を全く無視したアベノミクス的ポピュリズムに汚染されてしまっているということが出来るのではないだろうか。
つまり、消費税の廃止や消費税の減税などを代表とする生活や暮らしを過剰に主張するポピュリズムが、その背景の考えに、「国家には山ほど借金を背負わせても大丈夫で、決して国家が借金で破綻することはない」という洗脳を所持しているのではないだろうか。
そして、その洗脳を基にして、生活や暮らしを度を越して求めるポピュリズムを行なってしまっているのではないだろうか。
そういう質的変化が、表面上は同一の政策や意見であっても、内部で存在していたのではないだろうか。
また、そういったアベノミクス的ポピュリズムの思考形式や手法の洗脳に、つまりアベノミクス下のポピュリズムの洗脳などにそれほどまみれていなくても、二大政党制という思考の広まりによる時代による保守化の波や影響によって保守に染められた人たちも多数いると考えられる。
そしてその結果として、日本全体の多数が比較的最近の10年か20年くらいで保守化志向を強めていった印象がある。
そして、旧民主党政権やアベノミクス下の政権において、その国家主義下の動きとも相まって保守化したと言ってもいいだろう。
そしてこの保守化の動きの一方で、アベノミクス下の政権において野党の大半は、アベノミクスの極度な予算規模を是認させる洗脳により無批判な傍観者へと変じ、政権により去勢された結果、従順な羊のような態度を示すだけの野党へ成り果てて、一時、政権志向を全く失ってしまっていた。
そして、この羊的野党の動きは前述の保守化の動きとともに、同様に野党の中で傾向として進行していった。
つまり、アベノミクス下のポピュリズム政権において、伝統的野党やその他野党や、マスコミ、業者、評論家の大半も、アベノミクスと海外からの洗脳により、ポピュリズム化すると同時に保守化し、「従順な羊」へと成り果てて、当時の日本はまさに「洗脳化列島」の印象が強かったと言うことが出来るだろう。
そして、当時の社会は、以前にX(エックス)やブログや、Kindle本の著書「アベノミクスを考える:日本を蝕んだポピュリズムの正体」などで述べたことがあるので、詳しくはそれらに譲ることにするが、極端な同質化した危険で排他的な社会であった。

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